はじめまして。
イラストレーターのこんどうしずと申します。
好きなものは、みかんと、猫と、和風なもの、美味しいものを食べること、ひとりの時間です。
今日は、イラストレーターと名乗るまでの経緯を、自己紹介も兼ねて書きたいと思います。
「紆余曲折あったけれど、今は頑張って描いています」と伝わると良いなと思います。
イラストレーターになるまで
小学生の頃
小学校低学年の頃は、絵の上手な友達の落書きを見て、「すごいな〜」と思っていました。
高学年になり、夏休みの課題で絵を描くと、褒めてもらえるようになりました。
少年漫画が大好きで、週間少年ジャンプを毎週楽しみにしていました。
(『SLAM DUNK』『幽遊白書』『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん』世代)
下手くそながら、漫画もどきも描いていました。
中学生の頃
学校行事で出かけたバスの中で、「他己紹介」というのをやることになりました。
自分は、他人からどういう風に見られているのだろう・・・とドキドキしていると、
クラスメートは、「こんどうさんは、絵が上手い人です。」と紹介してくれました。
私って、絵が上手い人なのか・・・
と、衝撃を受けました。(勘違い)
勘違いした私は、美術コースのある高校を受験することに決めました。
受験には実技試験があったため、毎日、雑誌に載っているタレントさんの写真を模写して、美術の先生に見せていました。(謎の独自トレーニング)
受験の面接で、「好きな画家は?」と聞かれて答えたのは、フェルメールと天野喜孝(ファイナルファンタジーⅥにどハマりした影響。)
高校生の頃
無事、美術コースのある高校に入学。
この高校は、美術コースなだけあって、美術の先生が5人もいました。
立派な石膏室があって、3年間、毎日デッサンをしました。(デッサンは苦手でした。)
この頃は、ゴッホやピカソが好きで、ピカソの本をよく読んでいました。
『私立の美大や浪人はNG』という条件付きで進学の許可がおりたため、公立の大学の芸術学部(油絵科)へ進学しました。
大学生の頃
大学に入ると、周りは絵の上手な人ばかりでした。
半数以上が、浪人して美術の予備校などで絵を勉強した人でした。
ここで、やっと気付きました。
私って、たいして上手じゃないんだな。
この辺りからなんとなく、大学に行くのが億劫になり、必要最低限のことしかやらなくなりました。
(とにかくメンタルが弱い…)
それと同じ頃、「描きたいものを自由に描いて良い」と言われても、何も描きたいものが無いことに気付きました。
デッサンや油絵を習って、技術こそ少しは上手になったけれど、それだけでした。
この頃から、絵を描くことから離れていきました。
社会人時代
そのため、絵を描く仕事にはつかず、「日本文化が好き!着物が好き!」という理由だけで、呉服販売の会社に就職。
「綺麗なものが毎日見れる〜」と呑気に喜んでいたら、そこはバリバリの営業の世界でした。
暗いブースで、名簿片手に、朝から晩まで営業の電話。
道ゆくお客さんに声をかけて、あわよくば着付けする。
ハイテンションでの、長時間接客。等々、私の苦手なことだらけでした。
イベントでは新人でも何百万ものノルマがあったり、上司にはブラック過ぎる言葉で罵られたりと、私にはとても続けられない世界でした。
そんな中でも、お客様に送るDMをデザインしたり、チラシに載せるメンバーの似顔絵を描いたりする仕事は楽しかったです。
やはり、何か作る仕事がしたいな〜・・・と思い、求人雑誌で見つけたDTPオペレーターの仕事に転職しました。
この会社は、地元の小さい会社でしたが、DTPの教室もやっていたので、基礎的なことを1から教えてもらえました。名刺、DM、チラシ、学校新聞、自分史、年賀状など、印刷会社の下請けで作っていました。
制作以外にも、オンデマンド印刷機でチラシやパンフレット、ポスター、年賀状などを出力したり、年季の入った機械でフイルムや印画紙なども出していました。
その他、素材集や自社グッズの制作など、作業としては楽しいことが多かったです。
ただ、サービス残業が多い上、繁忙期には、夜中まで仕事して、帰って数時間後にはまた出社・・・という状態に疲れていました。
主婦時代
結婚と同時に退職。子供が2人生まれました。
育児は想像以上に大変で、ずっと自分は育児に向いていないと思っていました。
眠れないと噂の新生児期が終わって、そろそろゆっくり眠れるようになるのかな!と思っていたら、娘、アトピー発症。
毎晩、「痒い〜」と泣き叫ぶ娘の背中をかきながら、抱っこ3時間。
やっと寝たと思えば、1時間ほどでまた泣き出すの繰り返し。
症状が落ち着くまでは、親子揃って、万年睡眠不足。
治療の過程で、遅延型アレルギーの疑いで、卵、小麦、乳製品は出来るだけ使わない食事へ変更することに。おかげで、グルテンフリー食品や豆乳レシピには詳しくなりました。
ちょっと変わり者だった息子は、幼稚園でお友達とトラブルになり、呼び出しを受けたことも。
そこで園長先生に言われたのは、「家庭の育児に問題があるのではないか」という内容のこと。
専業主婦で、育児と家事しかしていないのに、人並みにも出来ていない・・・と落ち込みました。
そんなことがたくさん重なって、
もう私には、育児は無理・・・
と、半べそかきながら、市の育児相談に電話したことをきっかけに、子供たちの発達障害(ASD)がわかりました。
イラストレーターになろうと決めるまで
もともと働くことは嫌いではなく、育児が落ち着いたら、また働きたいと思っていました。
そんな気持ちとは裏腹に、長男は小学校に入ると、学校の環境が合わず、不登校気味になりました。
毎日送り迎えが必要で、子供が家にいない時間は、1時間半程度。
これ・・・働くの無理では・・・?
子供の発達障害が分かった頃から、色々調べるにつれて「この先、外で働くのは難しくなるかもしれない・・・」という気がしていました。
そんな予感もあって、その時やっていた地元企業への就活準備をやめて、「在宅ワークならできるかも・・・?」と、ライティングに手を出してみたり、ブログを立ち上げてみたり、デザインの勉強を再開したり、迷走しました。
そのうち、クラウドソーシングサイトや紹介などで、デザインの仕事(チラシ、バナー、アイキャッチ制作など)を何件かさせてもらうようになりました。
もっとデザインについて知りたいと思い、デザインのオンラインコミュニティに参加。
ここでは、ストックイラストなどは使わず、素材から自分で描いて、作って、デザインするのが普通でした。
そのため私も、下手くそながら、イラストレーターさんたちに混ざって、イラストを描くようになりました。
そうしているうちに、「イラストレーターさん達のように、もっと素敵なイラストを描けるようになりたい」と思いはじめました。
大学で絵をやめてから、ずっとイラストや絵を見るのが嫌でした。
自分が挫折したことを楽しそうにやっている人や、成功している人を見るのが面白くなく、視界に入らないようにして過ごしていました。
そんな自分が、今更絵を描くなど、絶望が深まるだけな気がしました。
昔のようにすら、当然描けなくなっているわけで・・・。
でも、「このまま何もしないで終わるのかな〜」と思うとつまらない気がして、
「もともとダメだったんだから、うまくいかなくて当たり前ですよね・・・。」
「『やらぬ後悔』を『やった後悔』にできたら、それだけでも前進なのでは?」
という低い志で、もう一度、描いてみることにしました。
イラ通・スクールに参加
調べてみると、イラストのスクールはたくさんあって、良い時代になったなと思いました。
その中でも、私の環境で受講できる条件が揃っていたのは、イラ通・スクールだけでした。
イラ通・スクールに入って、私の当時描いていたイラストについて最初に言われたのは、
「オリジナリティ、世界観が弱い。」
痛い・・・痛いけれど、図星・・・。
それから1年ほど、スクールの課題に取り組み、イラストレーションについて学びました。
たくさんのイラストレーターやアーティストの作品を模写し、お気に入りを集め、いろんな画材を試し、何度も失敗し、最終的に、ペンと水彩のタッチをメインにイラストを描くことにしました。
そして、2021年の12月から、イラストレーターとしての活動をスタートしました。
温もり伝わる、穏やかイラストレーション
スクールの講評の中で、私のイラストについて「みていると、穏やかな気持ちになれます。」と言っていただけたことがありました。
その時に、「穏やかなイラスト」ってなんだか良いな・・・と思い、自分のイラストのテーマにすることにしました。
行き当たりばったりで、イラスト一筋でここまで来たわけではありませんが、これからは、皆さんに喜んでもらえるように、精進してまいりたいと思います。
長い長い自己紹介に、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
温もり伝わる、穏やかで優しいイラストが必要になった際には、思い出していただけますと幸いです。